「現代アート」と云う病

 凡そ「現代アート」を自称する作家とその作品にアートの片鱗でも見えた試しがない、と云うのがこの世界の理でもある。

 いま現在、「現代(コンテンポラリ)」を付けない「アート」もその誕生した時点では言葉の本来の意味で「現代アート」であったが、彼ら芸術家は何も「現代アート」を作ろうとしていた訳ではなく、ただその時の自己の表現として、あるいはパトロンに指示される内に、各々の作品をカタチ作ってきた。それは当時として古典的であろうが前衛的であろうが、常にただの「アート」であった筈だ。アートに新旧も高低もない。

 しかるに何ゆえ昨今の自称現代アート作家は、自らの生み出すモノを「アート」とは呼ばずにわざわざ「現代アート」と区別したがるのか。既存の「アート」の枠に嵌らない意気込みだけではあるまい。それだけなら「アート」と自称してなんら問題はない。コンテンポラリだろうがなんだろうがアートはアートだ。むしろそれ以外の理由があるのではないか。即ち彼ら自身、彼らの作るモノが「アート」ではないと気付いているからなのだ。「アート」と呼ぶ自信がないのである。自信がないから「現代アート」と称して理論武装し大衆を煙に巻き、芸術を科学か宗教かのように語ろうとする。だがそれは「アート」なのか? わたくしが写真論で何度も語ってきたように、「理解しなければならない」モノはもはやアートではない。ギリシアの、いやタッシリの昔から、アートは感じるものだ。芸術は判る、判らないの世界ではなく、感じるか感じられないかのいずれでしか表せない領域にある。これは畢竟、万人に受容されるアートは存在しない、とも換言できよう。だからあなたがある作品になんらの感興も湧かなかったからと云って、あなたの感性に劣等感を抱くことはない。ことはただ単に、その作品はあなたの心に響かなかったと云うだけのことなのだ。そんな時、無価値だと云えるのは、作品に共感できないあなたではなく、あなたを揺さぶることのできない作品のほうである。

 今もし、自称「現代アート」作品にカネを出して手に入れようとしている人がいたら、もう一度良く考えてみて欲しい。あなたはその作品に何か感じるところがあって手を出すのか? もしそうではなく、投資目的なら止めておくが良い。なぜなら「現代アート」が「アート」として認知されるのは大体において作者の没後かそれより何十年も経ってからのことであって、その時にはもしかしたら高騰しているかもしれないが、恐らくあなたはこの世にいない。あるいは投機目当てではなく、当該の現代アーティストを早くから評価した人物として美術史上に名を残したいと思っていたとしても、やはり止めておくがいい。なぜならその手のアーティストには既に彼らを売り込もうとするパトロンや批評家連中が付いており、万が一そのアーティストが後世評価されたとしても、彼を見出した栄誉はそのパトロンたちに与えられるからであって、あなたに割り込む余地は微塵もない。

 だからもう一度、よく考えてみて欲しい。本当にその「現代アート」作品にあなたの琴線に触れるモノを感じたのだとしたら、もうこの先を読む必要はない。あなたの感性を断乎信じるべきだ。だがそうではないのだとしたら、手にしかけたゴミくずをゴミ箱に戻し、財布の紐を締め直して、ギャラリーを立ち去るのが最善の手だ。

 アートは大衆のものである。それは、貴族や目の肥えた好事家のものではない、と云う意味ではない。小難しい理論も多くの知識も必要としない、と云う意味である。感じるか否かに理論は要らない。ただ目を見開き、耳を澄ますだけだ。
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by y_takanasi | 2012-02-23 20:23 | Planar1,4/55


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