世界の主人

「世界に意味を与えるのか、世界から意味を読み取るのか」

久しぶりに興味深い記事を読んだので、思ったことをつらつらと書いてみよう。(上掲リンク先記事は安達ロベルトさんのブログである。)

──"欧米の写真家が、写真を通して自らが「世界に意味を与える」という能動的なアプローチを多く取るのに対し、日本人の写真家は、「世界から意味を読み取る」ことを大切にする受動的傾向が強いのではないかと思ったのである。"(記事より引用)

記事で筆者も書いているように、これは欧米と日本人の優劣の話ではない。単なる意味もしくは世界に対するアプローチの違いだ。だがこれは、一見正反対の姿勢に見えようが、実のところ世界を再構築すると云う点で同じことをやっているに過ぎない。なんとなればヒトの精神活動は常に能動的であり、意味を読み取ると云う行為はすなわち意味を作り出す行為と等価なのである。

わたくしたちは小さい頃から学校で、作者の考えとか意図とか、ひどい場合には気持ちなんかを見つけるよう訓練されて来ているので、対象に唯一無二の正解があるかのように誤解してしまいがちだが、論文以外にそんなものは本来存在しないのだ。まして写真活動の対象はヒトの創作物ではなく、この世界である。世界はいつでもそこに在るがままに在り、それ自体なんの意味も持っていない。ただ「観る」者だけがそこから意味を見出すのであり、それが(多くの行為者は自覚していないだろうが)意味を与える行為に他ならないのである。

世界を美しく見せるのも、世界を美しいと感じるのも、すべて行為者自身にかかっている。世界が美しいから美しいと感じるのではない。美しいと感じるから世界は美しいのだ。美しいと感じること、それ自体が意味を与える行為なのである。その行為が受動的に見えるとしたら、いや、受動的な云い回しになってしまうのは、思うに日本人の謙虚さがそうさせているだけなのだろう。手柄はわたくしたちにではなく、世界にあるのだと。
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by y_takanasi | 2013-06-06 20:56 | Biogon2,8/35


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