わたくしは表現者の端くれとして、作品至上主義の立場を取っている。これはすなわち、完成された作品に対する作者の介入を厳に戒めるものであり、ことその解釈にあたっていかなるヒントも、況や解を呈示することを否定する。なんとなれば作者が込めるべきメッセージもパッションも、製作過程において既に作品に込められているのであるから、完成作品に付け加えるべきものはなにもなく、またそこからいかなる解釈を引き出そうが、それはすべて作品と鑑賞者間の問題であるからだ。
不幸にして、後者の問題は屢々、と云うより頻繁に、作品鑑賞の場において忘却される。なにしろ批評の大家や教育者連中がこの問題を閑却すること甚だしいのだ。彼らは無意味にも作品の向こうに作者とその制作意図を見ようとする。いやそれ自体は悪いことではない。彼らが決定的に害悪であるのは、そうやって見出したモノを唯一の真実であると思い込み、他の鑑賞者に強制するからである。彼らには作品を通して見出した解釈が、鑑賞者自身によって再構築されたひとつの可能性にすぎないことに気付けない。ある解釈を導き出す過程が妥当であるならば、すべての解釈は真なのであり、その限りにおいて間違った解釈など存在しない。にも拘らず彼らがこの手の過ちを犯すのは、愚かな作者が事後介入を屢々為してしまうからである。つまり、まるでクイズのように、作者自身が「答え」と称するものを語ってしまうのだ。
もちろん芸術の長い歴史の中では、そういった唯一の解を作者が用意していた時代があった。むしろ、そのほうが長かった。だがそれをもって、他のあらゆる解釈を否定することはできない。なぜなら完成された作品はいつでも作者の外にある存在であり、作者の手を離れた以上、作者の意思と1対1で照応することは不可能だからだ。そのゆらぎの中に論理的なすべての解釈が許容される余地がある。そうすることが可能である以上、そうすることを拒絶することは他の鑑賞者はもちろん、作者にすら許されないのだ。そう、作者の表明する意図も、完成された作品にとってはもはやひとつの解釈にすぎないのである。あらゆる作品に唯一の解釈は存在しない。鑑賞者の数だけ解釈が存在するのだ。
鑑賞者、つまり作品の享受者は、自分たちがもっと能動的であり、表現の受け手として自由であることを、それだけ強力な存在であることを、自覚すべきだろう。
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