見る

 なにを撮ったのか判らない、撮影意図が判らない、などと云うやからの評価や感想は、極力無視することにしている。プロが云うのは、なるほど、その職業意識からして理解できなくもないが、それにしたって視野狭窄だ。腕のほうも大したことないのだろうな、と思わせる言辞である。

 撮影意図が判らない、というのは、なにに感動したのか、なにに美しさを感じたのかが判らない、と云い替えるならば、それは写真にセンセイションが感じられないということである。コミュニケーションの原則からすると、それは撮影者の責任であり、同時に鑑賞者の怠慢でもありうる。しかしなにを撮ったのか判らない、という言辞に関しては、もはや見る側の無能を表明しているに過ぎない。鼻の斜め上にくっついてるヒカリモノは、眉毛を止めてる画鋲なのかと云いたい。

 鑑賞者は表現の受け取り手であり、本来受動的である。だが単なる受動者ならば、そこらの消費大衆と変わるところはない。優れた鑑賞者であるには、今一歩踏み出して能動的たらねばならぬ。それが見る力である。もちろんこれが行き過ぎると、ありもしないものまで見てしまう虞れがある。実は見るという行為は、撮る──作品を作る──という行為よりも高度で難しいものなのだ。それゆえにこそ、良い絵を撮るには良い絵を多く見なければならない。見る力を養うためにも。
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Diax IIa + Westron3,5/35. AIKO LIGHTPAN 100 SS
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by y_takanasi | 2006-06-01 18:49 | Westron3,5/35


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