beauté la belle

 わたくしはあるべき論が大すきである。昔から何かと、かれこれはかくあるべきだ、を振りかざし、職場でも上司相手に同じことをやって、うんざりさせたりさせられたりしている。

 ところで写真に対しては、美しくあるべきだ、存在のかけがえのない瞬間を永遠のものにする──方途とする──べきだ、と云って憚らないが、それ以上のこと、細かいことについては何も云うことを持っていない。むしろ、それ以外のことは考慮しないべきだ、という論調である。これはひとつの芸術至上主義だ。それは芸術が表現技術の結晶である以上、すべては表現によってのみ語れ、ということである。テーマも、表題も、視点も、構図も不要なのだ。むろん、ジャンル分けなども無用の長物である。わたくしに云わせれば木村伊兵衛は自然主義に過ぎるし、土門拳は社会的リアリズムに毒されている。ロバート・キャパには人文主義の嫌いがあり、カルティエ=ブレソンには形式主義の匂いがする。ただしこれらは彼らの作品ではなく、発言や文書から漂うのであって、作品そのものに落ち度はなく、誰がなんと云おうともそれらはやはり美しい。

 だが不幸なことに、美しさは万人に共通のものではない。あるひとには美しくても、別のひとには何の感慨も惹き起こさない、ということもあるだろう。しかし落胆することはない。すべての美は必ず第一の享受者、すなわち作者を持っているのであり、そこから先はいかなる大作家の作品であれ、美を見ようとする意思のある者によって「発見」されるのだ。そのひとりさえ見つかってしまえば、あとは案ずることもない。そうして不幸中の幸いなのは、美は本物の中だけにあるのではなく、ニセモノの中にもあるということだ。だからもちろん、美を持たない本物、というものもある。

 ところで誤解しないでいただきたい。芸術至上主義の写真観とは、いわゆる芸術的写真のみを良しとすることではない。それが目指すのは先にも述べたように、存在のかけがえのない瞬間を永遠のものとする行為であり、写真である。記録写真にも、記念写真にも、その可能性は秘められている。それどころか、むしろ記念写真の類こそ、それを本領とするのではないか。それゆえジャンル分けは、無用の長物なのだ。
d0044379_21385836.jpg

Contarex super + Planar 1,4/55. ILFORD DELTA 100
[PR]
by y_takanasi | 2006-08-24 21:42 | Planar1,4/55


<< 紙 ふな >>