表現としての写真および良いレンズ

 現代のレンズはとかく優秀で、もはやメーカーや設計者による差異はほとんどないと云ってもよい。あるのはコーティングの方法とか硝材の選択とか絞り羽の枚数といった、云ってみれば金をかければどうとでもなるような違いであって、どのメーカーも最高級のばか高いレンズともなれば、これといって性格の差も出ない、要はどんぐりの背比べだ。

 そうなると当然と云うべきか、同じ被写体を同じフィルムで撮れば、どれもこれも同じような絵が出来上がることは自明の理であり、ここに当代写真芸術の有つひとつの問題点が浮かび上がる。すなわち主題第一主義だ。いかなるモチーフを選択するか、極言すれば先に撮ったもの勝ちなのである。あるモチーフを誰よりも先に撮る、誰も撮っていないモチーフを撮る、それが写真芸術家を評価する基準なのだ。絵画では同じモチーフを様々な画家が描き、それぞれが固有の評価を受け得るが、今の写真芸術とやらにそれはあり得ない。すでに撮られたモチーフを撮った者には、二番煎じの烙印が押されるのみだ。それも仕方あるまい。今時のレンズでは誰が撮ったって同じように写るのだから。何が写っているのかだけが取沙汰され、どう写っているか──どう、と云うのは構成とか光の加減とかいったものではない──は無視される。

 現代のレンズはミニアチュールを描くようなものだ。正に写実的であり、優れた工房(アトリエ)で制作されたミニアチュール同様、誰が描いたかはもはや関係ない。ただモチーフだけがある2つの絵の違いなのであり、そこにアングルとゴヤとピカソとのような違いは存在しないのだ。いったい、かくも中途半端な写真芸術とやらは、果たして芸術の埒内にあるものなのだろうか。

 芸術とは表現の技術であり、それによって生み出された美そのものである。写真芸術がモチーフに縛られている限り、芸術はモチーフに在って写真は単なる記録媒体に過ぎない。しかし写真はモチーフを表現するものではない、センセイション──セザンヌの云う意味での──を表わすものだ。センセイション、すなわち存在のある一瞬をかけがえのないもの、不滅のものとして定着し、再現するのが写真芸術の使命であり本質なのではなかろうか。とかく誤解を受けがちなカルティエ=ブレソンの出世作「決定的瞬間」の原題は「Image a la Sauvette(逃げ去るイメージ)」なのだ。

 写真レンズはとにかく解像力、特にシャープネスとハイコントラストを目指して発展してきた歴史を背負ってはいるが、目の前の光景をあるがままに──時としてそれ以上に──切り取るだけが写真の在り方ではない。その光景から受け取った──あるいは受け取るであろう感興をも再現できなければならない。良いレンズ悪いレンズなどと云う人やら雑誌やらが存在するが、チャート撮影やら比較撮影やらをもとにしただけでなにが判るというのか。現代の基準からすれば決して優秀とも高性能とも云えないレンズには、そのレンズならではの描写がある。それを味と云うのではない。フェルメールにはフェルメールの、ゴッホにはゴッホのタッチがある。レンズの描写の差とはそう云うものなのであり、決して優劣の差ではない。そのレンズの描写傾向(タッチ)を活かすことに意味があるのだ。とにかくきっちりかっちり写ること、そんなことは報道写真と広告写真に任せておけば良い。

 そもそも良いレンズとはなんなのか。職業写真家にとってではなく、われわれアマチュアフォトグラファにとっての良いレンズとは? わたくしの友人はかつて云った、良いレンズだから良い絵が撮れるのではなく、良い絵が撮れたから良いレンズなのだ、と。その通りだ。万人にとって良いレンズなどあろうはずもない。あなたが良い写真が撮れたと感じたとき、そのレンズはあなたにとって良いレンズとなるのであり、雑誌や他人が何と云おうとも、その評価に間違いはない。
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Contax II + Sonnar 2/85
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by y_takanasi | 2005-05-17 06:11 | Sonnar2/85


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