表現

 mimiさんとこで興味深い話題が出ていたので、引っ張ってみようと思う。元ネタ自体はさらに孫引きとなるので、リンクを辿ってもらえると助かる。

 さて、それはこうだ。なんでも「ノン・フォトグラフィー・デイ」なる運動を画策している人がいるんだそうだ。その意図するところはこれまでに何度も云われて来た主張だし、特段目新しくもなんともない。問題なのは──いや、そんなに大げさなことじゃないが──かの人の、写真という表現媒体の皮相的な捉え方である。つまり、写真は単なる記録媒体に過ぎないのか、ということだ。もちろんわたくしは、すでに直前の文で明らかにしている通り、それは表現媒体である、という立場を取る。これは何も記録媒体であることを否定乃至拒絶しているわけではない。写真は言語と同じように、記録/伝達媒体としての機能と、表現媒体としての機能とを併せ持つ。それは写真以前に絵画でもそうであった(ある)のだ。そうしてこの2つの境界は、截然と分かれているわけではない。このことと、写真が外界の事物を光学的/化学的に定着することとが、事態を厄介にしているのだ。すなわち言語や絵画と違って、一定の器械と手順をもってさえすれば、誰にでも同じ写真が作れる(もちろん、これは大いなる誤解だ)と思われているが故に、写真の表現媒体としての側面が軽視されがちなのである。件の運動子の写真観も、このバイアスがかかった視野狭窄の結果であろう。先に皮相的だと云ったのはそのことをさす。

 だが不幸にして、この手の偏った写真の捉え方をしている人は少なくない。それゆえにまた彼の運動の本意は理解できる。しかし一方で、この運動の宣言文を鵜呑みにして写真を撮らない、という行為に出るならば、それこそ写真を単なる記録媒体としてのみ捉えていることの証左にもなろうし、ひいてはこのことによって、写真というものの存在価値について間違った──いやそれは云いすぎか──偏った考えが助長されるとすれば、それこそは写真文化の発展の阻害となり、いつまで経っても写真はモノゴトをただ記録するだけの、極論すれば被写体やテーマばかりが論評の的となるだけの、つまらないメディアとして細々と生き長らえるばかりとなろう。これは写真を撮る側だけの問題ではない。見る側もまた、写真を表現媒体として見ることをしなければ、やはり写真はただそこにあったモノの、あるいはそこにいたことの、記録でしかないのだ。
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Contax II + Biotar 1,5/75 T. Tri X
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by y_takanasi | 2007-06-08 17:37 | Biotar1,5/75


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