平家谷

 秘境や秘湯と呼ばれる山間の僻村に行くと、屢々耳にするのが平家落人伝説である。中には奥州藤原氏や、南朝遺臣、時代はずっと下って隠れ切支丹なんてのもあるが、まあ大抵は平家である。そのほとんどは根拠薄弱な伝承の域を出ないし、種々の研究によって全国に散在する平家部落の9割以上は眉唾物とされる。日本に限らず世界的に貴種流離譚は一定の支持を見るものだから、たまたま流れ着いた素性も判らぬ敗残兵が我らは平家の一党だと詐称したところが、そのまま受け入れられて伝えられたことも多いだろう。これが大掛かりになると義経成吉思汗説や安徳天皇琉球王説などに成長するし、別の形を取ると信長や家康が平氏や源氏の末裔を名乗ることになる。

 ところで平朝臣信長は箔付けだったとしても、平氏が壇ノ浦で滅亡したと云うのはまったくのデタラメである。落人伝説が真実を含んでいるからと云う訳ではない。但し、平家が滅亡したと云えば、それは多少とも正確であろう。日本史に疎くてもこの意味が判る人は、氏族制度についてある程度把握している。つまり文治元年春の海戦で殲滅せられたのは平氏の宗家、特定の家名を持たない(伊勢平氏、のちに六波羅家と呼ばれるが)正盛の本家であって、桓武帝から続く平氏一族の大半は生き長らえたのだ。それが後世、特に現代正しく伝わっていないのは、他の平氏が多くは地名に由来する家名を持ち、その家名によって通称されているからである。曰く北條、梶原、三浦、和田、熊谷等々。お気づきだとは思うが、これらはほとんどが関東武家であり、頼朝公の下に源平合戦を戦った家々だ。そう、実のところ源平合戦なる名称は後代の錯乱であり、12世紀末の内戦とは平氏一族による権力争奪抗争に他ならない。

 しかし安徳帝を奉じる平氏総本家(平家)に叛旗を翻すには大義がいる。後白河法皇もそう考えて、後鳥羽帝の他に先の内戦(平治の乱)で根絶しかかっていた源氏宗家(源家)を担ぎ出した。すなわち平家に抗する源氏とは名目に過ぎず、それが源氏の注目されるところとなったのは、たまたま義経と云う戦上手がいた、と云うだけのことだ。権謀家の色濃い頼朝とても坂東平氏の大将──北條家の掌上にあって踊るのみ、義経、行家、範頼とただでさえ少ない本家同族を排斥して、公暁の誅戮とともに源家(こちらは鎌倉家とも呼ばれる)は滅んだ。かくて平氏内紛は北條家の勝利に終わり、源氏が政治の中枢に復帰するには、北関東の片田舎に虐げられていた源高氏の登場を俟たねばならない。すなわち平氏政権は壇ノ浦から更に150年も続くのである。当時の人々はこのことを正しく知っていたからこそ、太平記には、北條家滅亡をもって源氏の宿願は果たされた、と書く。そこで今一度振り返ってみよう。耳なし芳一の伝説で名高い壇ノ浦の血戦で幕を閉じる栄枯盛衰物語の巻名は何だったか。「平家」物語だ。決して「平氏」物語ではないのである。
d0044379_20485731.jpg

Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. ILFORD DELTA 100
[PR]
by y_takanasi | 2008-09-04 20:49 | Sonnar2/85


<< 如何に見る 釣具店 >>