カテゴリ:Sonnar2/85( 35 )

ぞなー

 正しいゾナー型の中望遠レンズは、コンタレックス用ゾナー2/85で一応の終焉を迎え、僅かにソ連(現ロシアとウクライナ)でユピテル9が生産されているに過ぎないが、その原型であるエルノスター=ゾナー型は未だに生き残っている。ヤシコンのゾナー2,8/85(2005年に製造中止)を始め、Gシリーズのゾナー2,8/90(同)、現行エルマリート2,8/90、それとMヘキサノン2,8/90だ。80年代まで遡れば、Mロッコール4/90というのもあった。

 エルノスター型はその名の通り、ベルテレがクルークハルト博士とともに開発した、エルネマン社のエルノスターレンズを源流とする。それはトリプレットの第1、第2群間に、凸メニスカスレンズを入れたもので、最初のものはしかしベルテレのものではなく、ガンドラックのウルトラスチグマットとして知られるマイナーの発案だ。エルノスターはこの第1、2群を接合ダブレットにしたもので、当時としては大変明るいF2の開放値を持つことができた。同じ頃、リーがガウス型で同じくF2のオピックレンズを完成させていたが、エルノスターほど有名になれなかったのは、エルノスターのほうが、小型で取り回しがよく、迅速な焦点調節装置のついたエルマノックスカメラに搭載されていたからだろうと考えられている。しかしこんにちエルノスター=ゾナー型と総称されるものの基本形は、むしろガンドラックのウルトラスチグマットに近い。

 エルノスター=ゾナー型は比較的製作しやすいのだろうか、中程度の明るさで画角の狭いレンズには数多く採用されている。国産135ミリレンズのいくつかはこのタイプだし、ツァイスの他マイヤーやライツもエルノスター=ゾナー型を利用した。この派生形とも云える2枚目と3枚目を貼り合わせたテレゾナー型とともに、中望遠クラスの標準型と云ってもいいだろう。大抵の場合、後群は接合ダブレットになっている。
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Contarex super + Sonnar 2/85. ILFORD DELTA 400
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by y_takanasi | 2006-01-04 21:15 | Sonnar2/85

写真表現

 あるひとつの写真を例えば記号として捉えた場合、我々はまずそこから指標作用を取り除き、これを表現表示作用のみに純化せねばならない。すなわち、そこに何が写っているのかを問うのではなく、どう表れているのかを見つめなければならないのだ。その上で各々の表示作用が我々の認識そして心象にもたらした──あるいはもたらすべき現象について判断するのである。

 よく写真の害悪のように云われる周辺光量落ち、四隅の乱れ、コマ収差や口径食も、それが欠点であると即断すべきではない。一般的な写真──表現とは、現実の模倣でも定着でもない。上述の欠点と見なされる特徴も、ただ写真レンズ発展の文脈から欠点と見るのではなく、表現表示作用のひとつとして写真全体の中で捉え、評価しなければならないのだ。

 かるがゆえに、写真にとって機材の選択は、画家が絵筆を選ぶのとは違う次元で、より重要なこととなる。それは絵筆が絵を描くための道具に過ぎないのに対し、機材──とりわけレンズとフィルム──は、単に写真を撮るための道具ではなく、写真表現自体に密接な連関を有つ、いわば技法そのものでもあるからだ。

 世の多くの写真好きと称する連中は、ここのところに気付いていない。このため、昨今はびこる写真芸術とやらは、被写体の珍奇さ、構図の斬新さ、表題の雄弁さばかりを衒っているだけで、還元すればただ一派のバリエーションを奏でているに過ぎない。わたくしが現代写真芸術に面白みを見出せないのは、そういった画一主義とモチーフ主義の氾濫するがゆえである。

 これは写真に限らず、小説や映画、まんがでもそうだ。それが時代の風潮だというのなら、そんなくだらない流行に従わなくともすむ、アマチュアでいることに感謝すべきだろうか。
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Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. ILFORD DELTA 100
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by y_takanasi | 2005-09-23 19:59 | Sonnar2/85

ハチゴのゾナー

 前に21ミリと25ミリは今さらほかのレンズに置換することができないレンズ、と書いた。同じようにほかのレンズを使ってみる気になれないのが、ゾナー8,5サンチだ。85ミリと云うのは個人的に最もすきな焦点距離で、そこから推察するにはいろいろな85ミリを使ってみたくもなるのがフツーの人なのだろうが、わたくしにはゾナー8,5サンチが1本あれば良い。たださすがにコレ1本、とストイックにはいかなくて、コンタックスのハチゴが2本と、コンタレックスの1本を持っている。本当はローライSL35のF2,8のハチゴもあるのだけれど、これはほとんど出番がない。やはりハチゴはF2に限る。

 はまると手放せなくなるレンズというのは、世の中に数多くある。でもほかのレンズが要らなくなる、というのは、レンズグルマン(わたくしはカメラ狂いであって、レンズ気違いではないけれど)にとっては、そう多くはないのではなかろうか。ハチゴのゾナーはそういうレンズだ。

 画角の違いを別にすれば、ハチゴはF2の5サンチゾナーと基本的に同じ傾向を表す。開放でのソフトだがピント面に芯の通った写りや、絞った時の分厚くシャープなピント面とアウトフォーカスの溶けてゆくボケ。特にコンタレックス用のハチゴでは、開放時のシャープネスも増して、合焦点からなだらかに溶解してゆくアウトフォーカス部のグラデーションの美しさが、その場の凝縮された空気感とともに、ひそやかに匂い立ってくる。どちらかと云えばヌケの悪いレンズであるけれど、そのせいか焦点距離の長さと相俟って、ステレオ写真のような誇張された立体感を表出するのだ。

 そんなわけで、わたくしにとってはF2のゾナーがあれば85ミリはこと足りる、と思っているのである──が、でもちょっとだけ、新ゾナー2/85ZMには惹かれるものがあったりする。構成的にはもはやゾナーではないけれど。
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Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. ILFROD DELTA 100
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by y_takanasi | 2005-07-23 23:03 | Sonnar2/85

85ミリ

 85ミリには、50ミリ以外で初めて使った単焦点レンズと云うこともあって、特別な思い入れがある。その85ミリがヤシコンのプラナー1,4/85と、旧コンタックスのゾナー2/85だったからなおさらだ。プラナーを使っていた頃はリバーサルばかり撮っていて、その描写と云うよりも発色ばかりに目を奪われていた。これと云ってろくな絵が残っていないのはそのせいもあろう。自分に色彩センスがないからと云うのもあるけれど、今でもカラー写真に心動かされることは少ないし、また撮るのも苦手だ。

 ゾナー2/85を手にしたのはちょうどモノクロに移行した頃で、最初に撮ったねこの絵(このブログの前のほうに掲載している)がいたく気に入って、現代機材を処分するきっかけともなった。絞り開放での甘い描写の中に、ピントの緩やかな山を表出して前後に溶けてゆくモノのカタチを見たとき、そもそも写真とは何であるかの答えの一端に触れたような気がしたのだ。

 爾来ゾナー2/85はわたくしにとって最初の「良いレンズ」となって、またそれを凌ぐレンズに出会ったこともない。いや、ただ1本あるとすれば、それはそのゾナーの最終進化形である、コンタレックス用ゾナー2/85であろう。ガウスタイプがどのように進化し、解像度と明るさを増したところで、このゾナータイプの最高傑作を超えることはない。
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Contarex super + Sonnar 2/85
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by y_takanasi | 2005-06-14 05:42 | Sonnar2/85

表現としての写真および良いレンズ

 現代のレンズはとかく優秀で、もはやメーカーや設計者による差異はほとんどないと云ってもよい。あるのはコーティングの方法とか硝材の選択とか絞り羽の枚数といった、云ってみれば金をかければどうとでもなるような違いであって、どのメーカーも最高級のばか高いレンズともなれば、これといって性格の差も出ない、要はどんぐりの背比べだ。

 そうなると当然と云うべきか、同じ被写体を同じフィルムで撮れば、どれもこれも同じような絵が出来上がることは自明の理であり、ここに当代写真芸術の有つひとつの問題点が浮かび上がる。すなわち主題第一主義だ。いかなるモチーフを選択するか、極言すれば先に撮ったもの勝ちなのである。あるモチーフを誰よりも先に撮る、誰も撮っていないモチーフを撮る、それが写真芸術家を評価する基準なのだ。絵画では同じモチーフを様々な画家が描き、それぞれが固有の評価を受け得るが、今の写真芸術とやらにそれはあり得ない。すでに撮られたモチーフを撮った者には、二番煎じの烙印が押されるのみだ。それも仕方あるまい。今時のレンズでは誰が撮ったって同じように写るのだから。何が写っているのかだけが取沙汰され、どう写っているか──どう、と云うのは構成とか光の加減とかいったものではない──は無視される。

 現代のレンズはミニアチュールを描くようなものだ。正に写実的であり、優れた工房(アトリエ)で制作されたミニアチュール同様、誰が描いたかはもはや関係ない。ただモチーフだけがある2つの絵の違いなのであり、そこにアングルとゴヤとピカソとのような違いは存在しないのだ。いったい、かくも中途半端な写真芸術とやらは、果たして芸術の埒内にあるものなのだろうか。

 芸術とは表現の技術であり、それによって生み出された美そのものである。写真芸術がモチーフに縛られている限り、芸術はモチーフに在って写真は単なる記録媒体に過ぎない。しかし写真はモチーフを表現するものではない、センセイション──セザンヌの云う意味での──を表わすものだ。センセイション、すなわち存在のある一瞬をかけがえのないもの、不滅のものとして定着し、再現するのが写真芸術の使命であり本質なのではなかろうか。とかく誤解を受けがちなカルティエ=ブレソンの出世作「決定的瞬間」の原題は「Image a la Sauvette(逃げ去るイメージ)」なのだ。

 写真レンズはとにかく解像力、特にシャープネスとハイコントラストを目指して発展してきた歴史を背負ってはいるが、目の前の光景をあるがままに──時としてそれ以上に──切り取るだけが写真の在り方ではない。その光景から受け取った──あるいは受け取るであろう感興をも再現できなければならない。良いレンズ悪いレンズなどと云う人やら雑誌やらが存在するが、チャート撮影やら比較撮影やらをもとにしただけでなにが判るというのか。現代の基準からすれば決して優秀とも高性能とも云えないレンズには、そのレンズならではの描写がある。それを味と云うのではない。フェルメールにはフェルメールの、ゴッホにはゴッホのタッチがある。レンズの描写の差とはそう云うものなのであり、決して優劣の差ではない。そのレンズの描写傾向(タッチ)を活かすことに意味があるのだ。とにかくきっちりかっちり写ること、そんなことは報道写真と広告写真に任せておけば良い。

 そもそも良いレンズとはなんなのか。職業写真家にとってではなく、われわれアマチュアフォトグラファにとっての良いレンズとは? わたくしの友人はかつて云った、良いレンズだから良い絵が撮れるのではなく、良い絵が撮れたから良いレンズなのだ、と。その通りだ。万人にとって良いレンズなどあろうはずもない。あなたが良い写真が撮れたと感じたとき、そのレンズはあなたにとって良いレンズとなるのであり、雑誌や他人が何と云おうとも、その評価に間違いはない。
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Contax II + Sonnar 2/85
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by y_takanasi | 2005-05-17 06:11 | Sonnar2/85