<   2005年 09月 ( 7 )   > この月の画像一覧

ノートリミング主義

 主義ってほどじゃあないが、わたくしはノートリミングがすきだ。とゆうかトリミングが嫌いだ。撮影時に被写体の取捨選択はしているのだから、もう一度同じことをするのがめんどくさい、というのもあるし、写ってしまった以上は写るべくして写ったのだから、それを尊重するのだ、という運命論的なものもある。でもまあ、本音はとにかくめんどくさい、とゆうとこだろうな。

 それから黒枠をつけて焼くのもすきだ。ポートレイトなんかでは厭がられる黒枠だが、こっからここまでがわたくしの撮った範囲、と主張するかのような黒枠がないと、なんだか落ち着かない。

 それに、表現芸術なんてものは個人の我の押しつけなんだから、こーゆうのもアリだろう。インテリアアートのように見るものの心を和ませ、安らぎを与えるアートがあってもよいし、鑑賞するものに緊張を強い、戦うアートがあってもよい。だいいち、美とは本来無用で傲慢なものなのだ。
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EXAKTA RTL1000 + Orestor 2,8/100. Tri X
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by y_takanasi | 2005-09-30 22:26 | Orestor2,8/100

評議会連邦

 中判には転ばない、と云ったくせに、最近サリュートSが面白くて仕方ありません。しかもハッセルブラッドは厭だ、とも云ったはずなのに、そのハッセルコピーのサリュートです。あの、バシューンというシャッター音とか、寸胴のハコの手触りとか、ウェストレベルファインダーの見え方とかが、妙に撮影意欲をかき立てるのです。あるいはこれが、ソビエトコピーものの魔力なのかもしれません。
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Saljut S + Mir 26V(3,5/45). Tri X
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by y_takanasi | 2005-09-29 23:58 | MIR-26V*

プリント

 写真はどこまで行って完成品となるか。当たり前のことだが、ひとに見せることを前提としている多くの場合、それはプリント、またはPCデータ化するまで行って、初めて完成品となる。リバーサルフィルムであっても、スライド上映で鑑賞するなんてことはきょうびあまりあることではないから、特殊な目的でもない限り(例えばステレオ写真とか)やはりプリントが前提だ。ビューワで覗き込むなんて、あくまで写真オタク同士の流儀である。

 そうなると、どのようなフィルムを使うか、だけでなく、どのようなプリント工程、どのようなデジタルデータ化、といったことも、本来重要なことなのだ。ほとんどのひとにとって、これらの工程はまずラボ任せである。それが悪いというのではない。自分でプリントしなければ本当の自分の写真にはならない、などとくだらないことを云いたいわけでもない。単に撮影するだけでなく、プリントが完了して初めて写真となる、そのことを意識しているかどうかが重要なのだ。

 写真は選択の芸術だと誰かが云っていた。その選択とは被写体に限ったことではない。カメラ、レンズ、フィルム、印画紙、現像工程、そのすべてに選択の余地と、表現の幅があるのだ。そうしてもちろん、ラボ任せにするとしても、どのラボを選ぶのかという選択肢が、あなたにはあるのである。それを軽んじてはいけない。
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FED + FED 2/50. ILFORD DELTA 400
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by y_takanasi | 2005-09-28 21:49 | FED2/50

レンズの評価

 わたくしはシロートだが、シロートなりにレンズの評価をするときには、必ずモノクロを撮ってからするようにしている。よく云われるように、大伸ばしにしないと本当の性能は判らない、という意見にはしかし懐疑的だ。大伸ばしが常態のひとならそのほうがよいに決まっているが、大抵はサービス判かせいぜい2Lどまり、であればそのサイズで判断したほうが、そのひとにとっては──そして多くのアマチュアにとっても──適切である。

 モノクロで評価する、というのも、もちろん、モノクロ主体の写真趣味であるからなのだが、もうひとつ、カラーに関するレンズの描出力は、多くの場合プリントで大きく左右されてしまうからでもある。はっきり云って、微妙なカラー描画力の差異は、カラー写真主体の撮影スタイルだとしても、どーでもいいことなのだ。

 よく雑誌やウェブサイトなんかで、シアンに転ぶからこれこれのフィルターが必要だとか、暖色傾向にあるのでポートレイトに向いているとか、書いてあるのを目にすると、お前らばかか、と思うのだ。パンコラー1,4/55みたいにまっ黄色になってしまうのは別として、カラー写真なんかプリント時にいくらでも補正は利くし、まして最近のデジタルラボ処理なら大した手間もかからない。リバーサルにしたって、スライドで鑑賞する場合はともかく──でも今時、学術目的以外でそんなことするやついるのか?──大半はPCに取り込んで眺めるのがオチだ。原版がシアンに転ぼうがイエローかぶりしようが関係ないではないか。

 こーゆうのは字数を稼ぐためのライターの手抜きか、レンズ描写に詳しいことをひけらかそうとして無知をさらけ出しているだけのことだから、マジメに取り合ってはいけないのだ。
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Saljut S + Mir 26V(3,5/45). Tri X
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by y_takanasi | 2005-09-26 17:36 | MIR-26V*

写真表現

 あるひとつの写真を例えば記号として捉えた場合、我々はまずそこから指標作用を取り除き、これを表現表示作用のみに純化せねばならない。すなわち、そこに何が写っているのかを問うのではなく、どう表れているのかを見つめなければならないのだ。その上で各々の表示作用が我々の認識そして心象にもたらした──あるいはもたらすべき現象について判断するのである。

 よく写真の害悪のように云われる周辺光量落ち、四隅の乱れ、コマ収差や口径食も、それが欠点であると即断すべきではない。一般的な写真──表現とは、現実の模倣でも定着でもない。上述の欠点と見なされる特徴も、ただ写真レンズ発展の文脈から欠点と見るのではなく、表現表示作用のひとつとして写真全体の中で捉え、評価しなければならないのだ。

 かるがゆえに、写真にとって機材の選択は、画家が絵筆を選ぶのとは違う次元で、より重要なこととなる。それは絵筆が絵を描くための道具に過ぎないのに対し、機材──とりわけレンズとフィルム──は、単に写真を撮るための道具ではなく、写真表現自体に密接な連関を有つ、いわば技法そのものでもあるからだ。

 世の多くの写真好きと称する連中は、ここのところに気付いていない。このため、昨今はびこる写真芸術とやらは、被写体の珍奇さ、構図の斬新さ、表題の雄弁さばかりを衒っているだけで、還元すればただ一派のバリエーションを奏でているに過ぎない。わたくしが現代写真芸術に面白みを見出せないのは、そういった画一主義とモチーフ主義の氾濫するがゆえである。

 これは写真に限らず、小説や映画、まんがでもそうだ。それが時代の風潮だというのなら、そんなくだらない流行に従わなくともすむ、アマチュアでいることに感謝すべきだろうか。
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Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. ILFORD DELTA 100
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by y_takanasi | 2005-09-23 19:59 | Sonnar2/85

取り外し可能

 ライツのレンズには一部不思議なモノがあって、レンズヘッドがヘリコイド部からそっくり抜ける。これはどうやらビゾフレックスや接写装置に付け替えて使うものらしい。不思議だ、と書いたのは、それがバヨネット式でなくねじ込み式であるからで、一体、SLRならまだしも、RFカメラで、シロートがほいほいとレンズヘッドを取り外しできてしまうのはいかがなものか。確かにバルナックライカのマウントはねじ式だから、どのみちそこで誤差は生じてしまうだろうが、その誤差発生箇所を増やす必要もあるまい。ましてM型ではせっかくバヨネットにして精度向上させたのに、相変わらずねじ込み式のレンズヘッドで、しかもそれを取り外しするような使用法をユーザーに許していたのは、よほど工作精度に自信があったとしか思えないのだが、しかしレンズ本体の実焦点距離を単一に追い込めない(追い込まない?)割には、強気である。
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Leica M3 + Elmar 4/9cm. ILFORD DELTA 400
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by y_takanasi | 2005-09-13 09:57 | Elmar4/90*

写真と機材

 恐らく一般的な考え方ではないだろうが、わたくしは写真を見るときに、何で撮ったのかを、何が写っているかよりも、重要なことだと考えている。それは、どう写っているかに直接関与する要素だからだ。

 確かに、文章創作において使用したペンやワープロ、絵画においてカンバスや絵筆、絵具に拘泥するのは間抜けな話だ。だが、写真におけるレンズやフィルム、カメラ──これはそれほど重要でないが──は、絵筆や絵具とは違う。写真において創造性は、なにも被写体と構図だけに存在するのではない。それだけならば、写実的絵画となんら変わるところはない。どのようなレンズを使い、どのようなフィルムで写し、ひいてはどのようなフィルム現像、いかなる印画紙、プリント現像したかにまで、それは見出し得るのだ。なんとなれば、たとえ同じ被写体を同じ構図で撮影したとしても、以上の要素が異なれば、でき上がったプリントは決して同じものにはならない。すなわちこれらの選択の中に、写真を撮る者の創造性が関与するのだ。

 それは、広い意味で作者の意図と呼んでも良い。わたくしは作品鑑賞において作者の意図と云うものを極力排除する立場の人間だが(だから表題も嫌いだ)、前者の意図は、どう写したか、であって、後者の、何を写したか──それを通じて何を表そうとしたか──と云う意図とは関係がない。それは、後者が作品解釈と云う名の逸脱行為に関わるものであるのに対し、前者はあくまで作品表現それのみに結びついているからだ。

 我々は写真を通して何かを見るのではない。写真そのものを見るのである。そうして写真表現とは、ただ何が写っているかだけではないのだ。構図は無論、光の加減、ハイエストライトからディープシャドウまでの階調分布、銀粒子の粗細、それらすべてが表現としての幅を有っているのであり、絶対のパラメータ配置は存在しない。これらの幅は現像からプリントまでの工程を同一にしたところで、なおカメラとレンズとによって、変化する余地を有しているのだ──現代のレンズがより画一化を強めているとしても。

 弘法は筆を選ばない。だが、良き写真家は機材を選ぶのである。
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Contax II + Sonnar 2/5cm. ILFORD DELTA 400
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by y_takanasi | 2005-09-12 09:07 | Sonnar2/50