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かなりいい加減

 モノクロをメインに撮っていながら、粒状性やら細密度やらに頓着しないわたくしは、ひょっとしてひどい異端かとんでもない鈍感野郎なのだろうか。確かにわたくしもどこにピンが来ているのか判らない絵や、のっぺりとしてしかもざらついた絵は嫌いだが、かと云ってカミソリで撫で切ったような絵や、極細密画を見るが如き写真もすきになれない。大体自分で焼く時はいつも軟調で、今の基準からすると抑揚のない平べったい絵を作る。その中に幽かなコントラストを残すのが好みなのだ。勿論階調は解像度に依存するから、微粒子現像で肌理の細かい陰画を作ったほうがあとあとの潰しは効くし、幅も出る。判っちゃいるのだが、そこまでの労をとる必要性を、今のところ感じないのである。なにより、そうやって作られたと思しい他人の絵に、美しさを感じたことがない。古い絵許り観てるせいもあるのだろうが、それはまた新しい人の絵に魅力をほとんど感じないからでもある。もっと他人の絵を見ろって? まァ、そうなんだけどさ。
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Contax II + Biotar1,5/75. Tri X
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by y_takanasi | 2009-06-07 16:30 | Biotar1,5/75

しかく

 以前にも書いたが、わたくしはスクエアフォーマットが苦手だ。写真に限らず、正方形の画面を構成するのが昔から大の不得手だった。しかし正方形の画面と云うのは、古来よりそう一般的なものではない。建造物を飾るレリーフにしろ、イコンにしろ、大衆絵画、映画、TV、まんが、書物──そのほとんどが長方形である。何より黄金比と云う存在が、正方形よりも長方形に美を見出そうとしていたことの証だ。唯一、正方形が標準となっているのはレコードのジャケットである。

 大体、正方形は図形としては比較的安定したカタチではあるが、心理的に頗る不安定なカタチでもある。つまり四辺いずれもが等価である為に、いずれを下にしても構わない──どこまでも転がってゆきそうな感覚に襲われるのだ。じゃあ写真のタテ位置はどうなんだって? うん、アレは理屈で考えると不安定なのだが、どういう訳か正方形よりは安定した感じを受けるんだよな。なぜだろう。
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Flexaret V (Belar 3,5/80). Tri X
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by y_takanasi | 2009-05-04 19:05 | Flexaret Va

うつくしき

 わたくしの美に対する考え方は、もうずうっとポオの呪縛に捉えられたままだ。もちろんポオは文芸について語り実践したのだが、その思想はそのまま全ての美に適用され得るとわたくしは考える。そう、それが言葉であろうが音楽だろうが映像だろうが、それこそ味覚嗅覚の世界であったとしても、美の基本概念は同一不変である。表し方──と云うよりも顕れ方が異なるだけだ。そして常に、それを捉えるのは人間であり、その他の生き物でもなければ神でもない。それゆえ美には至高も普遍もなく、人間がこの世に現れてこのかた、常に美しかったものなど存在しないのだ。だが──そう、だが、それが何だと云うのだろう。個々の人間が全ての時代を生きることが出来ない以上、──いや仮に全ての時代を生きることが出来たとしても──、全ての美は個々の現在に内在する。それは過去でもなく未来でもない。そして唯一、この意味に於いて美は普遍となるのだ。
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Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. Tri X
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by y_takanasi | 2009-03-22 21:25 | Sonnar2/85

それは君のものか。

 誰もがその心の中に、その人自身の美を持っている。それは美を感じとる力であり、美を生み出す才能であり、美そのものである。それはこの世に唯一つのものであり、他人の美と似通うことはあっても、完全に合致することは決してない。だが不幸にして大多数の人々はそれを自覚しない。彼らはただ籍りものの美を己れの美と錯覚し、そこに安住することで自らの価値を腐損する。確かにそれは、生き延びるための知恵である。しかしそれはまた、生き延びるためだけの猿知恵である。それは多くの場合、倖せを齎すだろう──他人と同じような、他人によって代替されうる、誰のものでもなく、己れのものでもない。
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Lordomat SLE + Lordon 1,9/50. NEOPAN PRESTO 400
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by y_takanasi | 2008-10-30 20:10 | Lordon1,9/50

如何に見る

 写真とは作品であって、技巧ではない。即ちそれは結果であり、過程は鑑賞者にとって何らの意味も関係も有たない。ゆえに彼らにとっては、その原版がデジタルであるか銀塩であるか、カメラが何でレンズがなんだったのか、まったくの無関係である。彼らはただ、そこに在る絵を見る。それが正しい、そして最も真剣な鑑賞者の態度である。しかし同好の士、自らも写真を撮る者の場合、かようにストイックな鑑賞態度は取りにくいものだ。とりわけ彼がアマチュアならば、尚更に困難である。その障碍の一端は、彼らの向上心に由来しており、且つまた一端は、怠惰に由来する。いずれにしろそこには慾がある。だから我々アマチュアは、写真を写真のみとして捉えることができない。なんとも中途半端で、因果な趣味である。
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Contax II + Sonnar 2/8,5cm T. ILFORD DELTA 100
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by y_takanasi | 2008-09-06 19:02 | Sonnar2/85

目的は

 デジカメが市場を席巻するのと歩を合わせるかのように、表現目的を見失った大、中判愛好家が巷間溢れているようだ。人とは違うキカイを使いたい、変なことして目立ちたいのだろうし、その事自体は悪くない。わたくしだってその手の色気は持っている。しかしこの手の愛好家が得々として見せびらかす絵はどれもつまらないし、そのつまらん絵を見て、大、中判はシャープだとか立体感があるとか階調豊かだとか、論評しているのは噴飯ものだ。そんなことが云いたいならテストチャートでも撮っておれば良い。百年前ならいざ知らず、35ミリ判も各種デジカメもある今の世で、敢えて大、中判(フィルムであろうがデジであろうが)で撮るならそれ相応の表現目的がなければならない。しかるに彼らにはその目的が見えてない。ただそのフォーマットを使うことだけに神経が行っている。勿論、そういった稚気は誰にでもあるし、先にも書いたように悪いことではない。問題はそうやって生まれたできそこないを、まるでそのフォーマットでなければ撮れなかった絵であるかのように嬉々として語る、そのオツムだ。手段が目的なのだから、語るなら手段だけにすれば良いものを、何を勘違いしているのか結果にまで言及する。困ったことにこの手の愚行を見て喜んだり賛同したりするギャラリーがいるお陰で、彼らは益々調子づき、結果バカが大量生産されるのだ。これは由々しき問題である。と云うか表現目的意識を持って写真を撮っている人には別段問題はないのだが、何も知らない初心者が最も影響を受け易く、バカに感化されてバカが増えると云う、アマチュア写真界にとって好ましくない状況が生み出される。底辺が腐れば上層部が崩れるのは時間の問題だ。もっともこの手の現象はなにも大、中判に限ったことではなく、35ミリ判でもデジカメでも見られる。誰でも気軽に簡単に写真が撮れるようになった、現代写真界の病気なのだ。
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Contax II + Herar 3,5/3,5cm. Tri X
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by y_takanasi | 2008-07-28 19:28 | Herar3,5/35

表現

 スナップ写真と云うジャンルにも、ある種のテーマみたいなものはある。それは風景や静物、ポートレイトのようにはっきりとはしないことが多いけれども、なにかしらの一貫性を持つことだってある。なければならない、と云うことではない。テーマは芸術にとって必要不可欠なものではないからだ。表現者自らがそこにテーマを設定したり、メッセージを込める必要は全くない、。もちろん、鑑賞者がそこからテーマやメッセージを引き出すのは自由だ。時には表現者が第1鑑賞者としてそれらを見つけ出すこともある。しかし繰り返すが、テーマは必要なものではない。芸術に必要なのは表現のみであり、それが可能であれば、自己主張すらも必要ない。少なくとも、表現者自らがそれらを表現物に込める必要はない。それらを引き出すのは鑑賞者、批評家の権利であり、時には義務でもある。よく批評家連中が、作品のテーマが判らない、自己主張がない、などと勿体ぶってコメントすることがあるが、それは彼らの目が腐っているからであり、先入主に縛られているからであり、無能だからである。全ての表現はそれ自体で完成されており、完全無欠なのだ。あとはただ、鑑賞者との間に感応を生じるかどうかだけだ。世に優れた作品と云うのは、その感応が一定の方向を持ち、多数の鑑賞者に発生する、と云うだけのことであって、もし芸術の名に値しない作品があるとしたら、感応が誰一人の身にも生じない場合である。だが、そんな表現作品は滅多にあるものではない。あるのはただ、面白いか、つまらないかの差だけだ。
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Contax I + Sonnar 1,5/5cm. Tri X
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by y_takanasi | 2008-01-13 22:10 | Sonnar1,5/50

バカ

 わたくしが解像度信者を攻撃するのは、何も旧いレンズばかり使ってるからではない。もちろんボケ味などと云うわけの判らん概念を重視したいわけでもない。なにしろ愛用しているコンタックスレンズは、と云うよりツァイスのレンズは、解像力の向上を第一に目指しているし、彼らの設計思想にボケ味なんてモノはない。そして屢々忘れられているが、階調表現力は解像力に拠っており、解像力が低ければ階調再現力も低下する。しかしここで云う解像度信者と云う輩は、そんなことも理解せずに、ただシャープネスと細緻さを求めてやまないパラノイアのことだ。彼らは1インチ四方に何個の点が再現できるかに血道を上げ、至近開放でのピント面でつまらない被写体をつまらなく切り取ることに腐心する。得てしてこの手の患者はフィルムカメラユーザなら同プリのサービス判でしか出来上がりを判断しないし、あるいはポジをやたら高倍率なルーペでしらみ潰しに舐め回し、デジカメユーザならJPEG高圧縮で画像を保管閲覧する。全く自己否定も甚だしいのだが、奴らはそれに気付かない。バカだからだ。何しろ写真を表現手段として捉えずに、キカイ(カメラとレンズ)の性能実験結果としてしか見ていない──見えないのだ。バカだからだ。バカに付ける薬はないと云うが、確かにそんな薬は存在しない。連中はひたすらテストチャートとMTF曲線を信仰し、そんな数字上の高性能レンズで何を撮りたいのかが判らない。判るわけもないのだ。彼らにとってはスペックこそが全てであり、スペックが証明されれば良いのであり、そのスペックで表現できること、そのスペックに相応しい表現と云うものに思いが至らないのだ。ナゼか? バカだからだ。
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Contax II + Herar 3,5/3,5cm. Tri X
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by y_takanasi | 2008-01-08 20:14 | Herar3,5/35

解像度と云う名の神

 カメラを長く弄っていると、段々と中判や大判にシフトして行く人が割合に多い。わたくしはこれを、趣味が嵩じたのだと見るのではなく、単に老化が進んだ結果だと見ている。つまり、老眼だ。35ミリ判の繊細さに目がついて行けなくなって、同一サイズで比べた場合拡大率の低い、つまり見かけ上より精緻にみえる中、大判に惹かれるのだ。まあ、目が悪くなるのは仕方ないとして、ただ大きいことは良いことだ、と云わんばかりの中、大判愛好家には疑問がある。わたくしはフォーマットの違いは解像度の差ではなく、表現媒体の違いであるということに意義を見ているので、この手の被写体に関わりない中、大判愛好を蔑視する。単位面積あたりの精緻さを求めるこの思考は、つまり、もっと画素数を!と叫んでるデジカメユーザと変わりないし、かつて見られた(今も)レンズ解像度信者と全く同じ精神構造だ。それが例えば、病理学写真であったり、測量であったり、高解像度であることに意味のある利用法ならまだいい。大体において解像度信者の撮る写真とやらは、高解像度である必要が全くないくずのような写真である。あるいはカミソリのようなピント面に命を賭けたが如き、写真のためのレンズなのかレンズのための写真なのか判らないゲテモノを量産する。アマチュア写真と云うより、もはや児戯である。こんな児戯を見て喜んだり貴んだりする輩が多いせいで、日本の写真界は底辺からどんどん腐ってきているような気がする。
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Contax II + Topogon 4/25. Tri X
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by y_takanasi | 2007-12-29 13:53 | Topogon4/25

遍在する美

 この世に美は遍在する。常に、いかなる場所にも、それは存在する。足りないのは、美を発見する目だ。どのような美も、それを見出す目がなければ感じ取れるものではない。この目というのはもちろん抽象的な喩えで、視覚のみを指すのではない。掌で感じる美もあれば、舌で味わう美もある。観光風景写真が現実の体験よりも見劣りがするのは、肌で感じた美を視覚表現のみの写真に封じ込むことができないからである。

 それにしても、美を見出す目はどのように訓練すればいいのだろうか。簡単に云えばこうだ。美を見出すことによってのみ鍛錬される、と。すなわち美を見出そうとする気構えが必要である。漫然と事物を眺めているだけでは美は見出せない。そこに美を見ようとする意思が不可欠であり、云うなれば美とは常に意図的なものなのだ。だからそれは見出した者と一体であり、客観的な美などというものは存在しない。どのような美にも、それを見出せない者はいるのであって、しかしそれはどちらの責任でもないのだ。両者の間に感応が生じなかった、ただそれだけのことである。美は他人に教えられるものではなく、自ら定義するものであるから、彼にとってそこに美は存在しない。それでいいのだ。
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Contax II + Biogon 4,5/21. Tri X
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by y_takanasi | 2007-06-26 19:55 | Biogon4,5/21