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表現

 mimiさんとこで興味深い話題が出ていたので、引っ張ってみようと思う。元ネタ自体はさらに孫引きとなるので、リンクを辿ってもらえると助かる。

 さて、それはこうだ。なんでも「ノン・フォトグラフィー・デイ」なる運動を画策している人がいるんだそうだ。その意図するところはこれまでに何度も云われて来た主張だし、特段目新しくもなんともない。問題なのは──いや、そんなに大げさなことじゃないが──かの人の、写真という表現媒体の皮相的な捉え方である。つまり、写真は単なる記録媒体に過ぎないのか、ということだ。もちろんわたくしは、すでに直前の文で明らかにしている通り、それは表現媒体である、という立場を取る。これは何も記録媒体であることを否定乃至拒絶しているわけではない。写真は言語と同じように、記録/伝達媒体としての機能と、表現媒体としての機能とを併せ持つ。それは写真以前に絵画でもそうであった(ある)のだ。そうしてこの2つの境界は、截然と分かれているわけではない。このことと、写真が外界の事物を光学的/化学的に定着することとが、事態を厄介にしているのだ。すなわち言語や絵画と違って、一定の器械と手順をもってさえすれば、誰にでも同じ写真が作れる(もちろん、これは大いなる誤解だ)と思われているが故に、写真の表現媒体としての側面が軽視されがちなのである。件の運動子の写真観も、このバイアスがかかった視野狭窄の結果であろう。先に皮相的だと云ったのはそのことをさす。

 だが不幸にして、この手の偏った写真の捉え方をしている人は少なくない。それゆえにまた彼の運動の本意は理解できる。しかし一方で、この運動の宣言文を鵜呑みにして写真を撮らない、という行為に出るならば、それこそ写真を単なる記録媒体としてのみ捉えていることの証左にもなろうし、ひいてはこのことによって、写真というものの存在価値について間違った──いやそれは云いすぎか──偏った考えが助長されるとすれば、それこそは写真文化の発展の阻害となり、いつまで経っても写真はモノゴトをただ記録するだけの、極論すれば被写体やテーマばかりが論評の的となるだけの、つまらないメディアとして細々と生き長らえるばかりとなろう。これは写真を撮る側だけの問題ではない。見る側もまた、写真を表現媒体として見ることをしなければ、やはり写真はただそこにあったモノの、あるいはそこにいたことの、記録でしかないのだ。
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Contax II + Biotar 1,5/75 T. Tri X
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by y_takanasi | 2007-06-08 17:37 | Biotar1,5/75

50ミリ

 釣りはフナに始まりフナに終わる。写真は50ミリに始まり50ミリに終わる。今では35ミリや28ミリが標準となって、それどころかズームレンズが当たり前の時代だから、もはや「標準レンズ」という言葉自体が死語と化しているが、二昔前くらいまではレンズ交換式カメラにくっついてくるのは50ミリレンズだった。つまり写真を撮ろうという人はまず、50ミリの画角からすべてを始めたのである。

 50ミリレンズというのは不思議な玉で、ネガ上に写し出されるパースペクティブからすれば人間の視覚よりずっと広い、いわば広角レンズである。しかしライカの登場以来、いや45度前後という画角で云うとその前の中判、大判の時代から、このパースペクティブのレンズは標準レンズと呼ばれて来た。人間の両眼視野のうち、ある程度事物をそれとしてしっかり認識できる範囲からすると、50ミリ(45度)は少し狭く、35ミリ程度が適切だから、ますます標準の意味が判らない。恐らくこのネーミングは、カメラボディに「標準で」くっついてくるレンズ、というほどのことなのだろう。

 よく云われるように、50ミリ玉は広角風にも望遠風にも撮れる万能レンズである。かつては引伸しにも使えたから、ますますもってユニバーサルなレンズだった。そんな八面六臂の活躍ぶりが、却って一部の人たちには中途半端なレンズとして映ってしまったらしい。そこでスナップ派はより広角へ、ポートレイト派は中望遠へと離れて行ったわけだ。しかし立ち位置の自由さえあれば、50ミリは依然として万能レンズである。すなわち使い手の思惑によっていかようにも使える、ということだ。それは写真全般の基本に通暁しているということであり、またそれに拘泥しない発想と表現力を有っているということでもある。それゆえこれを自在に使いこなせてこそ、その人は優れたフォトグラファになれるのだろう。
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Contax II + Sonnar 1,5/5cm. Tri X
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by y_takanasi | 2007-06-06 18:57 | Sonnar1,5/50

視覚

 目で見た風景と、写真に撮った風景とは、いつも何かが違う。観光地で撮った記念写真なんかを見ると、その思いが強くなる。画角のせいだろうか? 写真のプリントサイズのせいだろうか? そのどれでもないようだ。わたくしが思うに、この違和感が生じるのは、そこに匂いや音がないからだ。われわれは決して目だけでものを見ているのではない。嗅覚や聴覚、時には触覚すら駆使して、風景を「眺めて」いる。だからこの違和感は、想像力の欠如でもない。ありのままの姿を写真にとどめることは、どだい不可能である。写真は存在を視覚作用のみに純化して記録する。われわれはあとからそこに匂いや音を感じようとすることもできるが、記録することはできないのだ。だから視覚以外のすべては記憶である。記憶は今そこにあるものではない。それを喚び起こそうとしない限り、決して立ち現れるものではないのだ。そうして記憶は、どこまでも現−在ではない。そこにギャップが生じ、われわれは違和感を感じる。感興で撮る写真の宿命である。

 もしあなたが、その違和感をできるだけ取り除きたいのなら、写真を撮る際にその風景を目だけで感じることだ。音も、匂いも、肌にあたる風や陽の光すらシャットアウトして、全神経を視覚に集中する。そうして純化された視覚体験は、あるいは特別な世界を見せてくれるかもしれない。
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BESSA R2C + NOKTON 1,5/50(Prominent). Tri X
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by y_takanasi | 2006-10-19 21:01 | NOKTON1,5/50

作品としての写真

 mimiさんところから話題を拝借しよう。写真に言葉は必要なのか、だ。云うまでもなくわたくしは不要派である。むしろ害悪とすら考えている。それは言葉が独立した表現媒体である以上、1葉の写真に説明やキャプションをつけることは、作品を2つ並べるようなものだからだ。それゆえ表題すらも無用のものとする。

 必要派の多くは、作品に対する作者の説明責任を口にする。だがこれは奇妙な話だ。なぜ作者は作品を説明しなければならないのだろう。作品こそは生み出されたもののすべてであり、作者が表現したところの結果だ。ひとつの表現を別の媒体で表現することは批評であり、あるいは本家取りである。それは元の作品と関連性を持つが、そのものではない。それどころか別個の表現作品である。写真に別媒体の表現を追加すること、それはもはや純粋な写真──作品ではない。

 もうひとつの問題は、作者が作品を説明するその愚かさだ。それはその作者が作品を完成し得なかったことを表明するに等しい。なぜ作品だけで表すことができないのか。伝えたかったことを確実にするため? ちょっと待って欲しい。作品は表現であり、芸術である。決してコミュニケーションではない。作品──表現はそれ自体で完成され、存在するものであり、そこに込められたもの──そんなものがあったとして──をどう受け取るかは鑑賞者次第なのだ。そこにもはや作者が介入する余地はない。説明(表題も含む)──言葉とは正にその介入であり、誘導である。別媒体で誘導される作品に何の価値があるか。言葉で補完されねばならない写真に何の価値があるか。そんな写真なんかやめてしまえ。
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Nikon F2 + Nikkor 2,5/105. ILFORD XP2 super
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by y_takanasi | 2006-09-22 20:48 | Nikkor2,5/105(1)

 こんなブログをやってて云うのもなんだが、やっぱり写真は紙媒体で見るのが一番だ。コントラストとか解像度の問題じゃない。紙そのものが持つ質感が伝わってくるのである。これはもちろんCRTでは得られない。白の向こうにある紙、黒の陰に隠れた紙、それが存在を主張するのだ。この質感は物理的なものであり、心理的なものでもある。不思議なことにぺらぺらの紙ではぺらぺらに、厚手の紙では厚みをもって感じとれるのだ。錯覚と云ってしまえばそれまでである。だが錯覚も感覚のひとつに違いあるまい。そうして写真は、そういった感覚を総動員して鑑賞するものである。たかがプリント用紙と侮るなかれ。その選択から写真は始まるのだ。
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Contarex super + Planar 1,4/55. ILFORD DELTA 100
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by y_takanasi | 2006-08-28 05:35 | Planar1,4/55

beauté la belle

 わたくしはあるべき論が大すきである。昔から何かと、かれこれはかくあるべきだ、を振りかざし、職場でも上司相手に同じことをやって、うんざりさせたりさせられたりしている。

 ところで写真に対しては、美しくあるべきだ、存在のかけがえのない瞬間を永遠のものにする──方途とする──べきだ、と云って憚らないが、それ以上のこと、細かいことについては何も云うことを持っていない。むしろ、それ以外のことは考慮しないべきだ、という論調である。これはひとつの芸術至上主義だ。それは芸術が表現技術の結晶である以上、すべては表現によってのみ語れ、ということである。テーマも、表題も、視点も、構図も不要なのだ。むろん、ジャンル分けなども無用の長物である。わたくしに云わせれば木村伊兵衛は自然主義に過ぎるし、土門拳は社会的リアリズムに毒されている。ロバート・キャパには人文主義の嫌いがあり、カルティエ=ブレソンには形式主義の匂いがする。ただしこれらは彼らの作品ではなく、発言や文書から漂うのであって、作品そのものに落ち度はなく、誰がなんと云おうともそれらはやはり美しい。

 だが不幸なことに、美しさは万人に共通のものではない。あるひとには美しくても、別のひとには何の感慨も惹き起こさない、ということもあるだろう。しかし落胆することはない。すべての美は必ず第一の享受者、すなわち作者を持っているのであり、そこから先はいかなる大作家の作品であれ、美を見ようとする意思のある者によって「発見」されるのだ。そのひとりさえ見つかってしまえば、あとは案ずることもない。そうして不幸中の幸いなのは、美は本物の中だけにあるのではなく、ニセモノの中にもあるということだ。だからもちろん、美を持たない本物、というものもある。

 ところで誤解しないでいただきたい。芸術至上主義の写真観とは、いわゆる芸術的写真のみを良しとすることではない。それが目指すのは先にも述べたように、存在のかけがえのない瞬間を永遠のものとする行為であり、写真である。記録写真にも、記念写真にも、その可能性は秘められている。それどころか、むしろ記念写真の類こそ、それを本領とするのではないか。それゆえジャンル分けは、無用の長物なのだ。
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Contarex super + Planar 1,4/55. ILFORD DELTA 100
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by y_takanasi | 2006-08-24 21:42 | Planar1,4/55

見る

 なにを撮ったのか判らない、撮影意図が判らない、などと云うやからの評価や感想は、極力無視することにしている。プロが云うのは、なるほど、その職業意識からして理解できなくもないが、それにしたって視野狭窄だ。腕のほうも大したことないのだろうな、と思わせる言辞である。

 撮影意図が判らない、というのは、なにに感動したのか、なにに美しさを感じたのかが判らない、と云い替えるならば、それは写真にセンセイションが感じられないということである。コミュニケーションの原則からすると、それは撮影者の責任であり、同時に鑑賞者の怠慢でもありうる。しかしなにを撮ったのか判らない、という言辞に関しては、もはや見る側の無能を表明しているに過ぎない。鼻の斜め上にくっついてるヒカリモノは、眉毛を止めてる画鋲なのかと云いたい。

 鑑賞者は表現の受け取り手であり、本来受動的である。だが単なる受動者ならば、そこらの消費大衆と変わるところはない。優れた鑑賞者であるには、今一歩踏み出して能動的たらねばならぬ。それが見る力である。もちろんこれが行き過ぎると、ありもしないものまで見てしまう虞れがある。実は見るという行為は、撮る──作品を作る──という行為よりも高度で難しいものなのだ。それゆえにこそ、良い絵を撮るには良い絵を多く見なければならない。見る力を養うためにも。
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Diax IIa + Westron3,5/35. AIKO LIGHTPAN 100 SS
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by y_takanasi | 2006-06-01 18:49 | Westron3,5/35

なぜ?

 mimiさんとこで、なぜ写真を撮るのか、という記事が上がっている。これは当たり前だけれど難しくて、たぶん、大事な問題だ。撮る人の数だけ答えがある、という考え方は間違いではない。だからここで総論をでっち上げるような莫迦なマネはしないし、抑もそんなことに大した意義があるわけでもない。そこで、ひとはなぜ写真を撮るのか、という前に、自分はなぜ写真を撮るのか、ということを考えてみる。

 と云ってみたところで、しかし何か確たるものがあるわけでもない。これまでに色々と書いてきたような理由、回答はあるけれど、それらは後付けのものだ。もっとプリミティブなところ、行為の根柢にあるものを探ってみるとどうだろう。思い当たることはないか。ひとつあるのは、わたくしはなんだかんだ云っても所詮はコレクターである、ということだ。つまり、そこにわたくしのすきなカメラがあるから、写真を撮るのだ。カメラはまず何よりも写真を撮る道具である。カメラがカメラであることを愛でるには、空シャッターを切ったり、モードラを意味もなくぶん回したりするよりも、フィルムを入れて被写体に向き合い、レリーズするのが一番よい。それがカメラというキカイに対する、最高の愛し方なのだ。

 かくてわたくしは写真を撮る。それは正に、撮るために撮っているようなものだ。それが正道であるか邪道であるかは関係ない。なにしろこれは、愛の行為なのだから。
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EXA ver.4 + Primotar-E 3,5/50. AIKO LIGHTPAN 100 SS
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by y_takanasi | 2006-01-06 20:23 | Primotar-E3,5/50

卑怯がモットー

 わたくしは、目的のためには手段を選ばない。写真においてもそうである。ねこ写真にしろ、スナップにしろ、手段を選ばない。と云うと、じゃあなんで不便なRFやら戦前のカメラやらを使っていて、高性能な現代SLRやもっと便利なデジカメを使わないのか、と云うと、単にねこ写真を撮るのが目的ではなく、そういった傍目には不便で厄介なカメラを使って撮る、それ自体が目的だからだ。

 そんなわけで、どちらかというと撮影スタイルが卑怯くさい。なりふり構わないのだ。正攻法でなく、搦手からも攻める。不意をつく。盗み撮りする。しかしまあ、ねこ写真はともかく、スナップなんてのは要するに盗撮である。どんなスナップの名手だろうが、どう云い繕おうが、キャンディッドフォトはすべからく隠し撮りみたいなものだ。それは第一には、やはり被写体に気づかれては困るからだ。これはもちろん、トラブルを避けるためでもあるし、不自然な挙動を取られないようにするためでもある。なにしろわたくしは、そこにある人間の、挙措の美しさ、存在そのものの美しさを捉えたいと思っているからだ。出来レースは見たくない。もちろん、出来レースでも美しいものはあるし、そもそもでき上がった写真を鑑賞するひとにとって、それが出来レースであるかどうかなんて、まったく関係ないのだがね。
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Saljut S + VEGA-12V(2,8/90). Tri X
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by y_takanasi | 2006-01-02 03:01 | VEGA-12V

ゆううつ

 銀塩カメラの衰退で、フィルムや暗室用品が次々に姿を消し、あるいは価格上昇の憂き目に遭っている。フィルムのほうは、わたくしはモノクロ主体だから、まあ、種類が減ってもなんとかやりくりしていけると思うのだが、印画紙のディスコンは非常に痛い。フィルムの微妙な差異よりも、印画紙の差異のほうがとても気になるのだ。というのもフィルムの違いは焼くときにそれなりに好みのほうに弄ることができるのに対し、印画紙の違いは焼き加減でどうこうできるものではなく、仕上がりにダイレクトに効いてくるからだ。だから今のお気に入りが整理されてしまう(噂がある)のはとても困る。1枚千円になってもいいから、なんとか生き残ってほしいのだ。頼むよ、イルフォード。
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Kiev 4am + JUPITER-3(1,5/5cm). Tri X
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by y_takanasi | 2005-12-07 00:49 | JUPITER-3